コラム「畠島の黒板について」

瀬戸臨海実験所畠島分室に古い黒板がある。瀬戸臨海実験所に来て、磯観察などで畠島へ行った人は必ず見ることになるから、毎年100人程度の人が見ていることになる。特に磯観察の場合には、この黒板の由来について触れた後に、畠島の環境について説明される。過去に見られた方、またこれから見られる方のために、ここにまとめておきたい。

黒板の写真

この黒板を書いたのは、山本虎夫さん(1912-1993)である。既に亡くなられてから20年近くになるが、1980年代後半頃まで、京都大学や実験所を訪れる大学の非常勤講師として、磯観察の指導をされていた。山本虎夫さんについては、ネットで検索するだけでも、保育社のカラーブックス「海辺の生物」の著作をはじめとして、その伝説的な逸話など、いろいろ見つかるようだ。ここでは、南紀生物同好会の会長として、和歌山県南部のあらゆる生物、特に海藻や貝類について、非常に博識であられたこと、実験所に出入りする多くの人たちに、多大な影響を与えられたことを挙げておきたい。

その山本さんが書かれた黒板ということで、消すことも出来ずにそのまま残って来た。古い京都大学の卒業生から聞いたところでは、1970年代の半ばには既に書かれていたということである。畠島の分室が完成したのが、1971年9月ということだから、ほとんど初期の頃から引き継がれて来たことになる。

もちろん、単なる飾り物ではなく、この黒板に書かれていることは、畠島の概略を説明するのに、今も利用させてもらっている。すなわち、岩礁・轢地・砂泥地などの多様な底質があり、さらに内湾から外洋への環境勾配が見られることが詳細に描かれている。このような多様な環境が入り組んでいることから、島を一周するだけで田辺湾全体の生物相を一望することができる。このため、瀬戸臨海実験所の創設以来、畠島を研究および教育上の重要地点として利用してきた。

この黒板の記述で、さらに重要なことは、当時の各地点の群集を代表するような種類が挙げられていることである。その中に「×」が付いているものがあり、それらは、1970-80年代にかけて、田辺湾の環境が悪化したときに、畠島から消滅したものである。例えばイソハマグリは 「消滅 60.6.25」と書かれている。このイソハマグリは、1985年に消滅して以後、未だに復活していないのだが、ケマンガイ、ゴマフニナなどは、2000年代になって以降、復活して来ている。

そもそも瀬戸臨海実験所が畠島を所有し管理しているのは、1960年代の半ばに、大規模観光開発で島の多様な環境が失われる恐れがあったからだった。その保全に尽力された当時の時岡隆実験所長は、「海岸生物群集1世紀間調査」を始められるということで、21世紀までかけて調査をすることを宣言された。その調査のいくつかは最近まで継続されており、この40年間の生物相の変遷が記録されている。その調査の中心メンバーであり、実験所OBでもある故大垣俊一氏が主宰されていたArgonauta誌に掲載されている論文は、関西海洋生物談話会のサイトから読むことができる。そこから畠島に関連する論文もたどることができる。

私が初めて畠島へ行った1990年には、周辺の養殖筏からのエサの残滓や臭いが漂っていて、惨憺たる状況だった。生物も富栄養的な環境を好むような種類が残っているだけで、実習の磯観察などでも、畠島よりは番所崎や四双島が選ばれていた。高い理想を掲げて出発したものが、実験所として畠島を維持することの意義が問われるような状況だった。それが、1990年代の後半から、それまで消滅したと思われていた生物種が、徐々に復活してくる兆候が見られ始めた。その傾向は今も続いていて、毎年の磯観察実習のたびに、それまで見つからなかった生物が見つかるようになって来ている。

私は迂闊にも後になるまで気がつかなかったのだが、畠島はまさしく長期モニタリングの場所となっていたのだ。しかも、一時期の環境の悪化とその後の回復という大変動を経過した場所ということになる。1960年代末に実験所が島を管理するようになった時点での畠島の環境については、いろいろな記録が残っている。例えば、1969年実験所発行の「畠島実験地」という小冊子には、当時の畠島各地点の代表的な生物相が記述されている。その後の個々の種類の消滅や復活などの消長は、いろいろな論文から読み取ることができる。1世紀間調査を提唱された時岡先生の慧眼に、ただただ敬服するほかはない。

この黒板は、以上のような畠島の環境や歴史を語る象徴となっている。いつまでも大切に活用して行きたい。

(大和 茂之)

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